戦後65年 愛する妻へ-戦場から900通の絵手紙-
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神戸市出身の日本画家、前田美千雄(まえだ みちお)さんが所属部隊や戦場から、
妻や家族へ送った絵手紙など1,000点余が、妻・絹子さんから柿衞文庫に寄贈されたのは
平成15(2003)年のことでした。
前田さんは東京美術学校(現東京芸大)日本画科を卒業後、
昭和14年から昭和17年まで戦地・中国に赴任。
中国から約3年間で、426通の絵手紙が家族宛を中心に、婚約中の絹子さん宛を送っています。
家族へは心配をさせない、元気である事を伝える内容が多く、
婚約中の絹子さんには少し遠慮がちに、その中にも自分の考え方を、
当時の中国での生活や文化の違い等から伝えています。
戦後60年にあたる平成17(2005)年には特別展として、
戦地中国から送られたものを中心に柿衛文庫で展覧されました。
昭和18年1月18日、美千雄さんと絹子さんが結婚。
昭和19年1月15日、結婚一周年を3日後に控えたこの日。
美千雄さん再召集。金沢市粟崎(あわがさき)の部隊へ。
戦後65年の節目となる今年、
夏季特別展「戦後65年 愛する妻へー戦場から900通の絵手紙」では、
平成17年の後、整理された中国から送られたもの、金沢市粟崎の部隊から送られたもの、
およびフィリピンから妻絹子さんに宛てて送り続けられた絵手紙を中心に展覧しています。
粟崎の部隊から送られた絵手紙は約3ヶ月で312通。一日に3通強。
また絹子さんも8度、粟崎に面会に通い、その時の絹子さんの姿は絵手紙にも描かれています。
昭和19年4月、粟崎から海外の戦地へとむかった美千雄さんから連絡がなく、
どこへ赴任したのか分からないまま1ヶ月以上がたった5月初旬、
『強烈な太陽の下に咲く花はさすがに強烈な色をしてゐる。
僕も又、強烈な意志を持って生活を貫かうとしてゐる。決して心配せぬやうに』
と「生きて帰ること」への宣誓のような文章が書かれた絵手紙が、絹子さんのもとに届きました。
≪花の名は知らず≫。そこの描かれていた花は、
赴任先が戦地フィリピンであることを示す『ハイビスカス』でした。
フィリピンからの絵手紙は昭和19年5月から12月までの7ヶ月で132通。
ただし、昭和20年以降のものが1通もなく、美千雄さんが書いていた「通し番号」と
数が合わないことから、絹子さんの所に届かなかった絵手紙も数多くあったと思われます。
絹子さんも返事を書き続け、軍事郵便で美千雄さんのもとへ絵の具等を送り続けました。
フィリピンからの絵手紙は色も鮮烈で、最後の絵手紙となった「バナナ売りの図」のように
決して戦地の悲惨なものではなく明るく日常的なものが多いのです。
それはまるで日本画家・前田美千雄が見ているもの全てを、
そのまま絹子さんに見せたいかのように・・・。
今の私たちが携帯電話で撮った写真をメールで送るような、
それに似た感覚だったのではないでしょうか。
全ての作品を見終わって、もう一度展示室入り口で振り返り作品を見渡したとき
美千雄さんと絹子さんの会話があちらこちらから聞えてくるような気がしました。
前田美千雄
昭和20年8月5日頃 フィリピン・マニラ東北の山中にて戦死と推定。遺品、遺骨なし。
享年31歳。
当時、神戸の実家に疎開していた絹子さんは25歳。
「繰り返してはいけないこと」とはどういうことなのか、再確認できた展覧会でした。
柿衛文庫 夏季特別展「戦後65年 愛する妻へー戦場から900通の絵手紙」は
8月29日(日)までです。

